吹き抜ける風に、少しずつ暖かさが混じる。
日差しこそまだ遠いものの、春はもう間近だと、膨らみかけた木の芽が伝えている。
「ふぅっ……」
筆をおき、キャンパスに背を向けてため息をひとつ。
「ご休憩になさいますか、カオル様?」
と、タイミングを見計らったかのように執事がティーセットを携え音もなく現れる。
「あ、うん……ありがと、ゴンザさん」
ゴンザなる執事が引いた椅子に腰掛け、カオルと呼ばれた女性はんーっと伸びをした。
「煮詰まっておいでですかな?」
「ん……まぁ、それもあるんだけど……」
カオルが言葉を濁しながら、紅茶を一口啜る。
うららかな午後、洋館の庭先、描きかけのキャンパスとティータイム。
これだけ揃うとさぞや良家のお嬢様なのだろう、と疑う人も少なくないだろう。
しかし、カオルはこの洋館の主ではない。
彼女は、とあるいきさつでここの主に救われ、紆余曲折を経て現在はこの館に厄介になっている身だ。
その二人は互いに憎からず思っているのだが、どうにももう一歩進めないのがもどかしいというかなんと言うか。
……閑話休題。
「鋼牙のヤツよ。ここ出てったきりもう何ヶ月も経つっていうのに、連絡ひとつよこさないんだもの!」
そう、その主……冴島鋼牙は、“仕事”のために、この館を空けていたのだ。
人々の生活の裏、闇に蠢く魔獣<ホラー>を討伐する、それが冴島鋼牙……<魔戒騎士>の使命だ。
カオルも、もとはホラーと鋼牙の戦いに巻き込まれ出会った。ゆえに一般人の身でありながら、ホラーのことも、魔戒騎士にまつわる事も知っている。
だから、彼女もゴンザに言われるまでもなくそのことは解りきっている。のだが……。
「それに“便りがないのは良い便り”、とも言うではありませんか。きっと今も、息災でございますとも」
冴島家に長らく仕える執事は、強い信頼を以って主の無事を信じている。
無論カオルとてそれを信じないわけはない。ならば何故憤っているのか――。
「無事なら声のひとつくらい……聞かせてくれたって……」
「カオル様?」
小さな呟きを聞き逃したゴンザが聞き返す。
「あ、いや、何でも……」
慌てて、言葉と一緒に紅茶を飲み込む。
「あ、そうだ。今度の個展の打ち合わせがあるんだった! ゴンザさん、今日の晩御飯いらないからっ」
ティータイムもそこそこに、カバンを引っつかんで飛び出していくカオル。
「い、行ってらっしゃいませ……?」
過ぎ去った風の後を、ゴンザが呆然と見送っていた。
牙狼<GARO>-贋者-
「うぅ……すっかり遅くなっちゃったなぁ……」
夜の街を、石畳に足音を響かせつつ、カオルが帰路に着く。
個展に場所を提供してもらった画商との絵画談義に思わず花が咲き、気づけばまもなく日付も変わろうとする時刻。
「ゴンザさんのことだからまだ起きて待ってるよね……悪いことしちゃったなぁ……」
人のよさそうな笑顔を浮かべる執事の顔を思い出す。今度鋼牙が帰ってきたときにでも彼に休暇を与えるよう相談をしたいところだ。とカオルはひとり考える。
もっとも、その鋼牙がいつ帰ってくるのかはさっぱり判らないのだが。
(それにしても……)
深夜の街はどうにも居心地が悪い。
雰囲気が嫌いというわけではない。単純に怖いのだ。
図らずも、闇の最奥に潜むホラーという存在を知ってしまった身としては、あまり夜に出歩きたくはないのが本音である。
奴らはさまざまなオブジェをゲートとし、人の前に現れ、命を喰らう。
あの時鋼牙に救われたのだって、さまざまな偶然が寄り集まって生じた奇跡のようなものなのだ。
その鋼牙が隣にいない。
そんな事実がカオルの心根をきゅっと縮こませる。
(鋼牙……)
知らず、胸元をかばう様に己が身を抱く。
(逢いたい……よ)
声にならない呟きが、ため息にまぎれて空に溶けた。
――と、不意に物音がカオルの耳朶を打つ。
「!?」
とっさに街灯の傍に寄る。気休めでしかないが、闇の住人から逃れようと、光の当たる場所に居たかったのだ。
「……」
息を殺して、物音の先をにらみ付ける。
“誰”か、はたまた“何”か。
変質者の類ならまだましだ。一応にも人間だから。
しかし、もしホラーなら……
息を呑む喉の音が、いやに大きく聞こえる。
「……!?」
と、植え込みから白い影がぬっと出てきた。
人の後姿らしき“それ”を見た刹那、カオルの目が見開かれる。
(鋼牙……!?)
大きな背中。夜闇に映える白いオーバーコート。
他の誰が見過ごしても、彼女は見過ごさない。
あれは、自分の命の恩人にして……想い人。
「鋼牙っ!」
声を上げる。が、彼は聞こえないのか、彼女に背を向けたまま歩き去る。
「ちょっ、待って! 待て!!」
それを追おうと地面を蹴った足がもつれる。先ほどまで正体不明の恐怖に、気づかないまま震えていたらしい足は、意思に反して縫いつけられたように動かなかった。
「っこの!」
膝頭をひっぱたき、転がるように駆け出す。
雑踏に消えた背中を追いかけ、繁華街に飛び込むカオル。
しかし――
「……あれ? あれ??」
その視界から、あの白いコートは姿を消していた。
-つづく-